長崎の町並みは、中島川沿いに商屋群、風頭山のふもとに寺院群が形成され、それらを繋ぐように橋が架けられました。中島川にほぼ直角に交わるタテの通りと、それらを繋ぐヨコの通りが構成され、タテの通りを挟んだ数十戸で町を形成していました。町名は変化しましたが、今でも町割りはそのまま残っています。
古くは中島川には木の橋が架かっていましたが、享保4年(1647年)の大洪水で多くの橋が流されたことにより、元禄12年(1699年)頃までには、中島川と直交する道路筋の殆どに石橋が架けられました。しかしながら、昭和57年(1982年)の長崎大水害で大きな被害を受け、その殆どを失ってしまいました。その後、復元されたもの、移築復元されたもの、新たにコンクリート橋に造り変えられたものなどありますが、現在も中島川石橋群としての景観を保っています。
眼鏡橋 👉 詳しく見る
日本初の石造りアーチ橋「眼鏡橋」は、橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46mで、昭和35年(1960年)に国の重要文化財に指定されました。
寛永11年(1634年)に興福寺二代目住職・黙子如定によって架設されました。正保4年(1647年)6月の洪水で損害を受け、慶安元年(1684年)に平戸好夢によって修復がなされました。それ以後、度重なる洪水にも流出はまぬがれてきましたが、昭和57年(1982年)の長崎大水害で大きな被害を受け、翌年に復元され、現在に至っています。
袋橋 👉 詳しく見る
日本初の石造りアーチ橋である「眼鏡橋」のひとつ下流に位置しており、眼鏡橋撮影スポットとして多くの観光客で賑わいます。
この橋は、架設年月、架設者とも不詳で、記録がありません。中島川の下流の石造りアーチ橋では、眼鏡橋に次ぐ古い石橋との説もありますが、確証はありません。享保6年(1721年)以降の度々の洪水にも流出を免れています。
魚市橋 👉 詳しく見る
日本初の石造りアーチ橋「眼鏡橋」のひとつ上流に位置しており、多くの観光客で賑わっています。
最初、石造アーチ橋が元禄12年(1699年)に岡正恒によって架けられましたが、享保6年(1721年)の洪水で流出しました。その後も木造や石造アーチ橋が架けられましたが、全て洪水によって流出しました。現在の鉄筋コンクリート橋は、大正14年(1925年)に架けられたものです。
東新橋 👉 詳しく見る
魚の町と諏訪町を繋ぐ橋で、長崎市民会館の裏手に架かっています。最初、石造アーチ橋が寛文13年(1673年)に架橋されましたが、享保6年(1721年)に洪水で流出しました。その後、2度目の橋が架橋されましたが、また洪水で流出。寛政12年(1800年)にこの位置で3度目のアーチ橋が架橋されましたが、昭和57年(1982年)の洪水で流出しました。
現在の橋は、昭和61年(1986年)に再架橋されたものです。
芊原橋 👉 詳しく見る
初代の橋は、延宝9年(1681年)に石造アーチ橋が架橋されましたが、享保6年(1721年)の洪水で流出しました。その後、2代目の石橋も水害で流出、3代目の石造アーチ橋は、文化元年(1804年)に長崎奉行所によって架橋されたものです。しかし、昭和57年(1982年)の洪水で流出しました。
現在の橋は、昭和61年(1986年)に車も通行できる鉄筋コンクリート橋として再架設されました。
一覧橋 👉 詳しく見る
明暦3年(1657年)に豪商で唐通事だった高一覧が浄財を募り、石造りアーチ橋を架橋したのが初代の橋です。享保6年(1721年)、寛政7年(1795年)、昭和57年(1982年)と三度の水害により流出し、現在の橋は昭和61年(1986年)に再架橋されたものです。
最初の架設者にちなんで、明治15年(1882年)に一覧橋と命名されました。
古町橋 👉 詳しく見る
麹屋町と古町を繋いでいます。元禄10年(1697年)に架橋されましたが、享保6年(1721年)の洪水で流出しました。その後、元文4年(1739年)に架橋されますが、寛政8年(1796年)に再び流出します。享和3年(1803年)に再架橋されますが、昭和57年(1982年)7月の洪水で流失しました。昭和61年(1986年)に再架橋され、現在に至っています。
最終訪問日:2026.02.18.
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