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小菅修船場跡

小菅修船場跡(こすげしゅうせんばあと)

小菅修船場 は、明治元年12月(1869年1月)に、薩摩藩とトーマス・グラバーによって建設された、船舶修理施設です。日本で初めて蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を整備した、西洋式のスリップ・ドックでした。スリップ・ドックとは、船を陸上に曳揚げて修理するドックのことです。曳揚げに使うレールについた船架がソロバンのように見えたため、「ソロバンドック」とも呼ばれました。曳揚げ機械やレールなどの設備は、グラバーが英国から輸入しました。
今も、曳揚げ小屋や、曳揚げ機械、レールや石積みなどのドック主要部の殆どが原型を留めており、近代造船技術の導入を窺い知る貴重な遺構となっています。また、現存する日本最古のスリップ・ドックです。

日本最古の煉瓦造建造物である曳揚げ小屋

小菅修船場跡は、昭和44年(1969年)に国指定史跡になり、平成27年(2015年)に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を構成する資産のひとつとなっています。

「曳揚げ小屋」は現存する日本最古の煉瓦造建造物で、使用された煉瓦はその形からコンニャク煉瓦と呼ばれています。日本で最初に作られた煉瓦で、海外の物より薄い煉瓦でした。この煉瓦は4つの工場で造られ、どこで造られたか分かるように模様が入っていました。現在も、模様の入った煉瓦を見つけることができます。

明治10年(1877年)撮影 東海丸上架中の小菅修船場(現地案内パネルより)
昭和7年(1932年)撮影 現地案内パネルより

徳川幕府が寛永6年(1853年)に大型船の建造禁止令を解いたことにより、幕府や各藩は軍艦の購入による軍事力に力を入れました。当時、薩摩藩は外国から購入した蒸気船を11隻も所有していましたが、日本には船の修理施設がありませんでした。
そこで、薩摩藩とスコットランド出身のトーマス・グラバーが共同出資を行い、スコットランドから蒸気動力によるスリップドックを輸入しました。
日本に建設された同型の様式スリップドックは、5基ありましたが、小菅修船場のみ現存しています。

国道499号から見下ろす

小菅修船場は、長崎湾の天然の入江地形を上手く利用し、中央部に船台のレールを配置し、両舷(船の左右の側面)に石垣を築いて斜路を造りました。斜路の頂部に曳揚げ小屋を、周囲には役所や大工小屋などが配置されました。

船台を曳き揚げる装置は、蒸気機関、歯車装置、チェーン、レールなどの機器で構成されています。
曳き揚げ小屋にボイラーが置かれ、石炭の投入が行われていました。現存するボイラーと煙突(基部のみ現存)は、明治34年(1901年)に取り換えられたものです。

曳き揚げ装置は、東端に蒸気機関があり、その直下から4段に8つの歯車が並び、4段目の歯車の軸に取り付けられたチェーンが回転し、チェーンの3ヶ所に取り付けることができる鉄製バー(鉄搾)を曳き揚げて、1本ずつ取り外すことで、船を徐々に曳き揚げることができました。また、反対の動作で鉄搾を1本ずつ継ぎ足していくことで、船を滑り降ろすことができました。
歯車を組み合わせることでチェーンを駆動する大きな回転力を発生させ、船台の曳き揚げ能力は、最大1,100トンでした。

現存するボイラーは、明治34年(1901年)に取り換えられたもの
これが1本4mあり、船まで32本伸ばしていた

写真の鉄製バーが、1本4mだそうです。これを船まで32本繋げいたそうです。これを蒸気の動力で曳き揚げて、1本取り外す、また曳き揚げて1本取り外す、という繰り返しで、船を徐々に曳き揚げていました。当時はワイヤーがなかったので、このような鉄製バーを使って船を曳き揚げたのだそうです。

小菅修船場 は、明治元年12月(1869年1月)に、薩摩藩とトーマス・グラバーらによって竣工しました。その数か月後、明治2年3月(1869年)には明治政府が買収し、明治17年(1884年)に三菱の経営下に入り、明治20年(1887年)には三菱に払い下げられました。

大正9年(1920年)には、蒸気ボイラーを動力とすることが時代にそぐわなくなり、操業を停止します。
しかし、昭和12年(1937年)に舟艇工場として復活します。その理由は、漁船や小型パトロール船などに小型船の需要が増えたこと、小型船を製造・点検・修理する小規模なドックも必要とされたからでした。

戦争が始まると、戦争のための舟艇工場として使われます。そして日本が戦争で負けてくると、すぐ上にあるトンネルで「震洋」を造り、このドックに下してから大村に運ばれたそうです。
震洋とは、ベニヤ板で造られた特攻兵器の舟です。大村湾で演習を行い、フィリピン沖や沖縄の特攻へ行きました。震洋での特攻で、2500人くらい亡くなられたそうです。震洋に積んだエンジンは、昔のトラックのエンジンで、その為、昔のエンジンはバタバタと音がしたものですから、敵に気付かれて狙い撃ちにされたのだとか。
小菅修船場は、昭和28年(1953年)に操業を停止しました。

曳き揚げ小屋の煉瓦は、当時長崎で焼かれたもので、高温で焼成する技術がまだなかったことから、現在の煉瓦よりも薄く、暑さ約45mmで、こんにゃくに似ていることから、通称「こんにゃく煉瓦」と呼ばれています。
曳き揚げ小屋の壁の煉瓦はフランス積みで、部分的に補修が行われており、一部は昭和8年(1933年)の戸町トンネル工事に伴う道路拡幅工事で改築されたと推定されています。

拡大表示すると、刻印がいっぱい見えます

曳揚げ小屋のコンニャク煉瓦は工場ごとに刻印が入っています。4つの工場で煉瓦が造られたので、刻印が4種類あるのかなと思いますが、これで4種類なのかイマイチ分からない・・・ 「花びら」みたいな模様と、「◯に一」が入った模様は幾つもあるので分かるのですが・・・

明治5年(1872年)に当時19歳の明治天皇が小菅修船場を訪れ、咸通丸の修船状況をご覧になられました。そのとき西郷隆盛などを護衛に連れ、軍艦で行幸されました。
軍艦を港に留め、小型船に乗り換えて、小菅修船場を視察されました。現在の駐車場横の階段を上って、上からご覧になられたそうです。
昭和11年(1936年)に建てられた「明治天皇行幸所小菅修船場址」碑は、明治天皇が立たれた階段の方を向いて建てられました。

「明治天皇行幸所小菅修船場阯」の碑

最終訪問日:2024.11.17.

小菅修船場跡 アクセス

 名称 小菅修船場跡
 住所 長崎県長崎市小菅町2付近
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