如己堂
如己堂(にょこどう)は、医学博士であった永井隆が最後を過ごした二畳一間の小さな建物です。その横には永井隆博士の生涯を記録する 永井隆記念館 が建ち、記念館の2階には児童図書館も併設しています。
永井隆博士(1908-1951)は、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書がある医学博士です。
島根県で医師の長男として生まれた永井博士は、1928年(昭和3年)長崎医科大学に進学し、浦上天主堂近くの森山家へ下宿しました。森山家がカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われ、1934年にはカトリックの洗礼を受け、同年に森山家の一人娘・緑と結婚しました。
大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組みます。しかし当時は医療機器も不十分だったことから、放射線を過料に受けていました。
また1933年の満州事変、1937年の日支事変(日中戦争)にも出征しています。
1945年(昭和20年)6月に長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けます。同年8月の原爆により被爆し大怪我を負い妻を失うも、被災者の救護活動に尽力しますが、自身も幾度か昏睡状態に陥ります。
そして1948年(昭和23年)に浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成し、「己の如く人を愛せよ」の言葉から、「如己堂(にょこどう)」と名付けました。二畳一間の小さな建物で、以降、亡くなるまでの3年を、2人の子供と共にこの如己堂で過ごしました。
病床にありながらも十数冊もの著書を残しています。1951年(昭和26年)5月1日に永眠しました。
如己堂の建つ場所は 帳方屋敷 の跡地でもあります。
徳川家康が禁教令を発布した当時、長崎には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいましたが、250年間潜伏しました。
その間、潜伏キリシタンの信仰組織がつくられ、指導者の頭を「帳方」と呼びました。この組織をつくり、初代帳方を務めたのが孫右衛門で、以降その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵 (浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続きました。
永井隆博士の妻・緑さんは吉蔵の子孫に当たります。
永井隆記念館
医学博士であり敬虔なカトリック信徒だった永井隆博士は、長年の放射線治研究により被曝し、更に原子爆弾よって被爆し、妻を失いました。
自らが大怪我を負いながらも、原爆被害者の救護活動に当たり、また自らの白血病と闘いながら原子病の研究と発表を続けました。その後病に倒れながらも如己堂で執筆活動を続けました。
隣人愛による恒久平和を訴え、願い続けた永井隆博士。長崎市永井隆記念館は、博士の精神と偉業を永く記念し、その遺徳を顕彰、博士の願いを如己堂とともにいつまでも広く発信していくために設立されました。
記念館の2階は、「うちらの本箱」と名付けられた児童図書館になっています。
永井博士は、昭和25年に自宅を改築して子供たちのための図書館を開き、「うちらの本箱」と名付けました。昭和27年に図書も充実され、「永井図書館」として建て替えられましたが、残念ながら博士は完成を見る事ができなかったそうです。
その後昭和44年に「永井記念館」と名前を変え、平成12年に改築し「永井隆記念館」が開館しました。
最終訪問日:2019.04.14.
如己堂/永井隆記念館 アクセス
名称 | 如己堂/永井隆記念館 |
住所 | 長崎県長崎市上野町22-6 |
TEL | 095-844-3496 |
URL | https://nagaitakashi.nagasakipeace.jp/japanese/ |
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