平和記念公園
広島平和記念公園 は、広島市に投下された原子爆弾の爆心地に近い広島市中区中島町に整備された市民公園です。
旧太田川(本川)が元安川と分岐する三角州の最上流部に位置しており、公園内には 「原爆ドーム」、「広島平和記念資料館」、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」、「被爆遺構展示館」、「G7広島サミット記念館」、他に数々の平和のモニュメントがあります。
❖ 原爆ドーム ≫原爆ドームのページへ≪
1945年(昭和20年)8月6日8時15分に広島市に投下された、人類最初に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える記念碑(被爆建造物)で、広島平和記念公園の北側に建っています。
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」と戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれています。
もともとは広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。
❖ 平和の時計塔 ≫平和の時計塔のページへ≪
広島平和記念公園の北側入口付近に建つ時計塔で、1967(昭和42)年10月28日に建立されました。
60度ずつひとひねりされた3本の高さ20mの鉄柱の塔上に、球体の3方向を向いた時計が乗っています。
毎朝、原子爆弾が投下された8時15分にチャイム音が鳴るようになっています。
❖ 平和の鐘 ≫平和の鐘のページへ≪
平和記念公園の北側に屋外常設展示されている平和の鐘で、1964年(昭和39)年9月20日建立されました。設計は梵鐘の分野で日本国宝となった香取正彦氏です。
4本の柱で支えられたコンクリート製のドーム型の屋根に、口径約1m×高さ1.7m、重さ約1200kgの梵鐘が下げられています。 梵鐘の表面には国境のない世界地図が浮き彫りにされています。この鐘は誰でも自由に鳴らすことができます。
なお、平和記念資料館には、年に一度、8月6日午前8時15分に平和記念式典内で鳴らされる平和の鐘が展示されています。
❖ 原爆供養塔 ≫原爆供養塔のページへ≪
1955(昭和30)年8月5日に建立されたもので、広島市への原子爆弾投下により亡くなった、氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養しています。この土盛りの内部に納骨堂があり、約7万人の遺骨が納められています。
❖ 原爆の子の像 ≫原爆の子の像のページへ≪
像のモデルとなった佐々木禎子さんの同級生らの募金活動により、昭和33年(1958年)5月5日に建立されました。
2歳の時に被爆し12歳で死亡した佐々木禎子さんをはじめ、原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける為に建立されたものです。三脚のドーム型の台座の頂上に、金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右に少年少女の像がある、高さ9mの像です。
❖ 動員学徒慰霊塔 ≫動員学徒慰霊塔のページへ≪
原爆ドーム のすぐ南側、元安川沿いの歩道から少し低い位置にあります。高さ12m、5層の有田焼の陶板仕上げの塔で、塔の下部には平和の女神像が祈りを捧げている様に見えます。
学徒動員とは、戦時中に国内での労働力が不足したため、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことです。広島市内には被爆当日、動員された学徒(動員学徒)が8000人以上おり、その内の約6300人もが犠牲となりました。
❖ 平和記念公園レストハウス ≫平和記念公園レストハウスのページへ≪
観光案内所兼休憩所であるレストハウスは、1929年に大阪に本店のあった「大正屋呉服店」の新館の店舗として建てられたもので、当時としては珍しい鉄筋コンクリートのモダンな建物でした。
1943年(昭和18年)、繊維統制令により呉服屋は閉鎖し、広島への原爆投下より、爆心地から170メートルの至近距離で被爆。地下室を除いて全焼しましたが、建物としての基本的形態はとどめました。
1982年(昭和57年)からは、平和記念公園レストハウスとして観光案内所や休憩所として使用されていました。改修工事を行い、2020年(令和2年)7月にリニューアルオープンしました。物産館・休憩所・被爆当時のまま保存された地下室などが利用・見学できます。
❖ 平和の池・平和の灯 ≫平和の池・平和の灯のページへ≪
この平和の池は、原爆死没者慰霊碑を囲み、慰霊碑が浮かび上がるように設計された池です。幅17m、長さは70mあります。
その中に建つ「平和の灯」は、台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現しており、水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和への願いをこめています。
この火は、昭和39年(1964年)8月1日に点火されて以来ずっと燃え続けています。
❖ 原爆死没者慰霊碑 ≫原爆死没者慰霊碑のページへ≪
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立した石碑です。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという趣旨から、屋根の部分がはにわの家型をしています。中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められています。
❖ 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 ≫国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のページへ≪
平和記念公園内にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」は、1945年8月6日、人類で初めて投下された核兵器・原子爆弾によって命を失われた方々を追悼し、平和について考える場所です。
原爆死没者を静かに追悼するため、地下2階建てという構造になっています。
❖ 広島平和記念資料館 ≫広島平和記念資料館のページへ≪
1945年8月6日に人類史上最初に投下された核兵器・原子爆弾の惨状を後世に伝え、平和について考えるための施設です。
1955年開館の本館(国指定重要文化財)と1994年開館の東館からなり、原爆投下までの歴史、原子爆弾について、原爆による被害、現代の核保有の現状などを展示しています。
❖ 平和の観音像 ≫平和の観音像のページへ≪
平和記念公園の北の部分、本川に架かる本川橋に近い場所にあります。平和乃観音像、中島本町(なかじまほんまち)町民慰霊碑ともいわれるこの観音像は、1956(昭和31)年8月6日に建立されました。銅製の観音像で、無くなった町に対する惜別の情と犠牲者への慰霊のために建立されました。
❖ 平和祈念像
草野心平の詩碑と共に設置された「平和祈念像」は、若い母親に抱かれた子どもが平和のラッパを吹いていて、その前に三日月がかかっています。全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力によって、1977(昭和52)年8月2日に建立されました。台座は募金によるものですが、像は圓鍔勝三氏の寄贈です。原爆死没者慰霊碑 を見守る位置にあります。
❖ 韓国人原爆犠牲者慰霊碑 ≫韓国人原爆犠牲者慰霊碑のページへ≪
原爆により犠牲になった韓国人のための慰霊碑です。1970年(昭和45年)4月10日に建立されました。「死者の霊は亀の背に乗って昇天する」という故事にならって、亀を形どった台座の上に碑柱が建ち、その上に双竜を刻んだ冠が載せられています。
❖ 旧天神町北組慰霊碑 ≫旧天神町北組慰霊碑のページへ≪
現在、平和記念公園になっている場所は、被爆前は中島地区と呼ばれ、幕末から明治・大正にかけて、市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街でした。
中島地区には幾つかの町があり、その中で旧天神町は、南北に細長く、北組・南組に分かれていました。その北組の慰霊碑です。(南組の慰霊碑は別の場所にあります)
❖ 被爆遺構展示館
被爆遺構展示館は、被爆の実相を直接見て肌で感じられるよう、原子爆弾による被害の痕跡が残る住居跡や、アスファルト舗装された道路跡などを露出展示しています。
❖ 峠三吉詩碑
峠三吉(とうげさんきち)の『原爆詩集』の「序」を碑文とした詩碑。
峠三吉は、大阪に生まれ、生後間もなく広島に転居しました。28歳のとき、爆心地から約3kmの翠町の自宅で被爆し、戦後は平和運動の先頭に立つようになりました。
ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを へいわをかえせ
❖ G7広島サミット記念館 ≫G7広島サミット記念館のページへ≪
2023年5月19日~21日に広島で行われた『G7広島サミット』の記念館です。被爆地でのG7サミットは初めての事であり、各国の首脳たちが、被爆の実相に触れ、平和への願いを込めたメッセージを残されました。
広島サミットの様子を伝えるパネル展示の他、平和記念資料館で記帳した芳名録の複製や、実際に使われた円卓と椅子、植樹に使われたスコップなどが展示されています。
❖ 広島国際会議場 ≫広島国際会議場のページへ≪
多目的ホールを備えるコンベンションセンターで、広島平和記念資料館の西側にあり、空中回廊で繋がっています。平和記念資料館と同じく、丹下健三氏の建築です。
最終訪問日:2024.06.14.
平和記念公園 アクセス
名称 | 平和記念公園 |
住所 | 広島市中区中島町1及び大手町1-10 |
TEL | |
URL |
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