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山王神社

山王神社

山王神社 は、長崎市坂本に鎮座する神社です。長崎市への原爆投下により、鳥居の半分が吹き飛んだまま現在も片側だけで立ち続ける「一本柱鳥居(二の鳥居)」、同じく原爆の熱線により枯れ木同然となりながらも蘇生し、豊かな緑を茂らせている「被爆クスノキ」を有する神社です。この被爆遺構を保存し、核兵器廃絶と世界の恒久平和実現を提唱しています。

境内入口には、「山王神社の大クス」の銘板、山王神社のご案内、「坂本町民原子爆弾殉難之碑」などが立ち、境内入口を入ったところに2本の被爆クスノキが聳え立っています。

山王神社境内入口
境内入口の銘板や、神社のご案内、坂本町民原子爆弾殉難之碑

「被爆クスノキ」「一本柱鳥居」は平和や再生のシンボルであると共に、原爆の災禍を後世に伝える存在として知られています。また、長崎市出身の俳優・アーティストである福山雅治さんの楽曲「クスノキ」のモデルにもなったことで、より認知度が高まりました。

「坂本町民原子爆弾殉難之碑」は、被爆倒壊した三の鳥居の足柱で作られています。被爆当時町内会長をしており、原爆投下当日に県外出張をしていた為難を逃れた久保さんが発案し、町民が手づくりで作った慰霊碑です。

被爆直後の2本のクスノキ(現地プレートより)
坂本町民原子爆弾殉難之碑

坂本町民原子爆弾殉難之碑のご案内
町内会長をしていたので翌日町内のようすを見て回った。さんさんと照りつける真夏の太陽の下にあちこちの畑一杯にあるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。意識のある者はすべて泣いて救いを求めた。780余人の総人口のうち200人ぐらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、達者な者も150人以上はいたのだが、それから10日ぐらい経ったころにはばたばたと死んで行き完全に生き残った者はわずか20人ぐらいに過ぎなかった。町内175世帯中家族そろって完全に生き残ったのは山王神社の船本氏の一家族だけである。その日朝8時ごろの空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて赤ん坊に至るまで完全に助かったというのである。
この文は被爆当時、町内会長だった久保忠八さん(昭和47年没)の手記「原爆記」(長崎原爆戦災誌に収録)の中から抜粋したものです。久保さんは昭和20年8月9日、浦上に原爆が投下された当日、仕事で県外に出張していて難をのがれた数少ない体験者です。2日後の11日、帰宅して目にしたのは一面の焼け野原。ご自身も妻子5人を亡くしました。その惨状を知る生き証人でもありました。昭和27年、被爆倒壊した山王神社の鳥居の足柱をゆずり受け、町民手づくりで碑を建立。以降、毎年、8月9日に慰霊祭を催して、犠牲となられた多くの地域住民に哀悼の誠を捧げ、世界の恒久平和を祈念しています。なお、碑は平成18年9月の台風で折れた楠の大枝が覆いかぶさり倒れましたが、住民の募金で復元。この地、山王からの祈りを今日に継承しています。

山王神社の創建は1638年(寛永15年)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた徳川幕府老中の松平信綱が、浦上街道(長崎街道の脇道)沿いのこの地を通りがかった際に、琵琶湖湖岸の坂本に風景や地名が酷似しているとして、山王日枝(比叡山)の山王権現を招祭してはとおっしゃいました。
そこで長崎奉行や代官が、寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼して、ここに延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」として建立されたのが始まりです。当時は神仏混合の時代でした。
その後は地域の氏子の方々に守られ、明治維新を迎えると、神仏分離令によって「山王日吉神社」と改称しました。

山王神社 弊殿

又、明治元年には山里地区に皇太神宮が祭られましたが、台風などで損壊し廃社となるところを、山王神社と合祭となり、明治17年には「県社 浦上 皇太神宮」と改称しましたが、地域では「山王さん」として親しまれてきました。
昭和20年の原爆で、一部の鳥居やクスノキを残して壊滅状態になりましたが、昭和24年には祭典を復活し、その後社殿や境内も徐々に復興されてきました。
昭和63年の神社創建350年の節目の年に、弊殿も再建してほぼ旧来の姿となりました。

山王神社被爆クスノキ

山王神社境内入口にある2本の楠は、被爆クスノキと呼ばれています。この2本のクスノキは、原爆投下の熱風によって、枝葉が吹き飛び、幹は途中で折れて黒焦げになり枯れ木同然となっていました。しかし、爆心地と反対側にあたる樹木の裏側から新芽が吹きだして、次第に樹勢を盛りかえし枝葉を茂らしてきました。このクスノキは、生命の力強さを見せ、戦後の復興への希望を人々に与えたことでしょう。
「山王神社の大クス」として市指定天然記念物に指定されており、胸高幹囲はそれぞれ8mと6mで、原爆により主幹の上部が折れた為樹高は10m程度ですが、四方に張った枝は交差して一体となり、東西40m、南北25mの大樹冠を形成しています。
2006年には台風13号の影響によりクスノキの枝が折れ、復旧作業中に幹の中から空洞が見つかり、その中から 原爆の爆風により入った物と思われる無数の石が発見されています。クスノキの前にはその空洞から取りだされた大きな石が置かれ、原爆の威力を物語っています。

境内入口には2本の被爆クスノキがある
左側のクスノキ
右側のクスノキ
右側のクスノキ
右側のクスノキ

この石の由来について
この石は、平成18年(2006年)山王神社被爆楠の木の二度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたものです。
(爆風 秒速220m、熱2000度〈推定〉)
その証として無数の石が、右側の木の中から発見されました。この木の3m上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって爆風により石が舞い上がり、小石が穴の中に入ったものと考えられます。常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。
神社に向かって左側の楠は爆心地に近く、主幹は途中で折れています。そのうえ、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。

山王神社二の鳥居(一本柱鳥居) 詳しくはコチラ

元々山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まで4基の鳥居が建てられていました。その中で唯一現存するのが、この二の鳥居の右半分です。
1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下により、一の鳥居と二の鳥居の半分を残し、他は倒壊しました。一の鳥居は爆風に対して並行に建っていた為、ほぼ原型のまま残っていましたが、1962年(昭和37年)に交通事故により倒壊しました。現存する二の鳥居は、爆心地から南東へ約800m離れた場所に建っており、爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの、奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残りました。
右半分だけで立つ二の鳥居の奥には、倒壊した左半分の鳥居が横たえられており、倒壊以前の写真と倒壊した部分の配置図が掲示してあります。

山王神社二の鳥居(一本柱鳥居)

最終訪問日:2024.11.17.

山王神社 アクセス

 名称 山王神社
 住所 長崎県長崎市坂本2-6-56
 TEL 095-844-1415
 URL   https://sannou-jinjya.jp/

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