大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)
国宝「大浦天主堂」は、長崎市大浦地区にあるカトリックの聖堂です。正式名称は「日本二十六聖人殉教者聖堂」で、慶長元年(1597年)2月5日に西坂の丘で殉教した二十六聖人に捧げられており、西坂の丘に向かって建てられました。
大浦天主堂は、二十六聖人が聖人に列せられた1862年に、フランス領事館通訳のジラール神父や、フランス人宣教師のプティジャン神父らによって建設が開始され、1865年に献堂式が行われました。当時は禁教令も残っており、フランス人のための教会として建設されました。また教会建設地として、二十六聖人の殉教地に建てたかったのですが、当時は大浦地区に外国人居留地があり、その居留地外に建てることは許されず、現在の南山手の地が選ばれました。
建設当初の外観は、黒地に白い格子のナマコ壁、内部はこうもり天井とも呼ばれるリブ・ヴォールト天井という、和洋折衷の建物でした。表向きは外国人のための教会でしたが、天主堂の正面には「天主堂」と漢字で大きな文字を掲げました。これは日本での再布教やキリシタンの発見を期待したためでした。長崎の人々は「フランス寺」と呼んで見学に押しかけました。
そして大浦天主堂の献堂からわずか1ヶ月後の3月17日に、宗教史上の歴史的な出来事である「信徒発見」が訪れます。
現在の大浦天主堂は、建設時の天主堂が手狭になったことから、1875年と1879年に増築されたものです。創建時の聖堂を中央部分に包み込んで、周りを取り囲む形で洋風建築に増築されています。外壁には白い漆喰が塗られていますが、煉瓦造りの教会です。
日本に現存する最も古いゴシック様式の教会として、1933年に国宝に指定されました。1945年の長崎への原爆投下で被害を受け、その修復が完了した1953年に再度国宝に指定されました。
また、2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録され、大浦天主堂はその構成資産の一つとなっています。
大浦天主堂は、キリスト教が禁止されていた250年以上の間、密かに信仰を続けた信徒が発見された教会として知られています。その信徒発見の出来事は、見学者を装って訪れた浦上地区の農民たちでした。浦上のキリシタンたちは、プティジャン神父に迎え入れられ、聖母子像の前で信仰を告白したのです。
現在も、浦上天主堂の聖堂内、右手の祭壇に、信徒発見を見守った聖母子像(信徒発見のサンタマリア)が飾られています。
また、天主堂の建物正面に建つ、真っ白なサンタマリアは、信徒発見の翌年にプチジャン神父によってフランスで作られた像で「日本之聖母」と名付けられました。
大浦天主堂の内部は、ゴシック様式の特徴であるリブ・ヴォールト天井で、祈る人々の心を天に引き上げると言われています。窓には美しい模様のステンドグラスがはめ込まれ、聖堂内部に柔らかな光を落としています。
正面の祭壇のステンドグラスは、十字架に架けられたキリストの様子が描かれています。祭壇の右手の壁にはフランス人画家が1869年に描いた「日本二十六聖人殉教図」が飾られています。
その日本二十六聖人殉教図の下には、プチジャン神父の墓碑があります。1884年55歳で没したプチジャン神父は、現在この聖堂の床下に葬られています。(古代、中世のヨーロッパでは教会の地下や地下礼拝堂に亡骸が納められ、壁に墓碑がはめ込まれていました)
聖堂内部、右手の祭壇上の聖母子像は、信徒発見のサンタマリアと呼ばれています。1865年3月17日に、大浦天主堂を訪れた浦上地区の農民が、信仰を告白するのを見守っていたサンタマリアです。この信仰告白の出来事をきっかけに長崎、外海、五島に多く潜伏していたキリシタンが信仰を明らかにし始めました。
しかし、当時はまだ禁教下であり、1873年に禁教令が廃止されるまでは、秘かに活動を行いました。弾圧の厳しさも続き、浦上では四番崩れと呼ばれる大規模な迫害も起こりました。
大浦天主堂の見学は、入口で拝観料が必要です。見学ができる建物は、「大浦天主堂」とそれに隣接する「旧羅典神学校」「旧長崎大司教館」で、いずれの建物も撮影禁止です。「旧羅典神学校」と「旧長崎大司教館」はキリシタン博物館になっています。
受付から大浦天主堂に続く石階段の左手には広場があり、信徒発見のレリーフや、プティジャン神父、教皇ヨハネ・パウロ二世、十字架に架けられたキリストの像があります。
旧羅典神学校 は、明治8年(1875年)に建設された、構造は木骨煉瓦造で、骨組を木造にし、壁に煉瓦を積む特殊なもので、壁面は漆喰が塗られています。ド・ロ神父による設計です。大正15年(1926年)までラテン神学校校舎兼宿舎として使用され、以降司祭館や集会所にも使用され、その間若干の一部改造がありました。1972年に国の重要文化財に指定されました。
旧長崎大司教館 は、1863年頃に司祭館が建設され、老朽化に伴い1915年にド・ロ神父の設計で建替えられました。敷地の高低差を利用した煉瓦及び木骨煉瓦造りの建物です。
最終訪問日:2024.11.18.
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🔗 大浦天主堂 (2015.01.02. 訪問)
✞ 長崎のキリシタン年表 ✞
| 🌟🌟🌟 |
| 1549年 | 天文18年 | 聖フランシスコ・ザビエルが来日。キリスト教伝来 |
| 1550年 | 天文19年 | 聖フランシスコ・ザビエル、平戸へ布教 |
| 1569年 | 永禄12年 | 長崎最初の教会、トードス・オス・サントス教会ができる |
| 1571年 | 天亀02年 | 長崎開港 |
| 1582年 | 天正10年 | 天正遣欧少年使節が長崎からヨーロッパへ向かう |
| 1587年 | 天正15年 | 豊臣秀吉がキリシタン禁令(バテレン追放令)発布 |
| 1590年 | 天正18年 | 天正遣欧少年使節が長崎に帰る。活版印刷機を持ち帰る |
| 1597年 | 慶長元年 | 日本二十六聖人殉教 |
| 1613年 | 慶長18年 | 徳川家康がキリシタン禁令(禁教令)を発布 |
| 1618年 | 元和04年 | 長崎で殉教始まる |
| 1637年 | 寛永14年 | 島原の乱起こる |
| 1639年 | 寛永16年 | 宗門改の制度始まる。ポルトガル商人の渡来を禁止 |
| 1641年 | 寛永18年 | オランダ人を出島に移す |
| 1858年 | 安政05年 | 長崎奉行が踏絵を廃止。米・英・蘭・露・仏と通商条約を結ぶ |
| 1859年 | 安政06年 | 長崎開港。欧米五か国との通商始まる |
| 1862年 | 文久02年 | 日本二十六聖人が聖人に列せられる |
| 1865年 | 慶応元年 | 大浦天主堂建立。250年潜伏したキリシタンが発見される(信徒発見) |
| 1867年 | 慶応03年 | 浦上キリシタンが捕らえられる(浦上四番崩) |
| 1868年 | 明治元年 | 浦上キリシタン4600余人の流配始まる |
| 1873年 | 明治06年 | キリシタン禁制の高札撤去。キリシタン迫害終わる |
大浦天主堂と長崎のキリシタン年表関連リンク
大浦天主堂 アクセス
| 名称 | 大浦天主堂 |
| 住所 | 長崎県長崎市南山手町5-3 |
| TEL | 095-823-2628 |
| URL | https://oura-church.jp/ |
近隣スポット
長崎県 ✞ 教会・キリシタン関連史跡
| 大浦天主堂 | 長崎市南山手町 |
| カトリック大浦教会 | 長崎市南山手町 |
| 浦上天主堂 | 長崎市本尾町 |
| 日本二十六聖人殉教地(西坂公園) | 長崎市西坂町 |
| 日本二十六聖人記念聖堂(西坂教会) | 長崎市西坂町 |
| 日本二十六聖人記念館 | 長崎市西坂町 |
| カトリック中町教会 | 長崎市中町 |
| カトリック飽の浦教会 | 長崎市飽の浦町 |
| 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 | 〚世界文化遺産〛 |
| カトリック三浦町教会 | 佐世保市 |
| 天正遺欧少年使節顕彰之像 | 大村市 |
| 放虎原殉教地 | 大村市 |
| 胴塚跡/首塚跡 | 大村市 |
| 日本二十六聖人乗船場 | 東彼杵郡東彼杵町 |
| カトリック雲仙教会 | 雲仙市 |
| カトリック愛野教会 | 雲仙市 |
| キリシタン殉教碑 | 雲仙市 |
| 土手之元キリシタン墓碑 | 雲仙市 |
| 島原城のキリシタン墓碑 | 島原市 |
| 原城跡 | 南島原市 |
| 有馬キリシタン遺産記念館 | 南島原市 |
| 有馬のセミナリヨ跡 | 南島原市 |
| 南島原市の切支丹墓碑 | 南島原市 |
| カトリック福江教会 | 五島市 |
| カトリック浦頭教会 | 五島市 |
| カトリック堂崎教会 | 五島市 |
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