広瀬神社
広瀬神社は、竹田市出身であり、日露戦争の旅順戦で戦死した「軍神」広瀬武夫中佐(1868~1904)を祀る神社で、竹田市を含む旧直入郡内の戦歿者等の霊1400余柱を合祀しています。広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰する人々により、昭和10年5月25日に建立されました。境内には広瀬記念館があり、広瀬中佐の遺品などが展示されています。
竹田といえば滝廉太郎ですが、広瀬中佐は同じ時代に生きた軍人で、ドイツ留学中の滝から、ロシア駐在中の広瀬に「荒城の月」の楽譜が贈られるという親交もありました。
この銅像は、NHK大河「坂の上の雲」の放映で再びその魅力に光が注がれた、平成22年に建立されたものです。軍服姿でコートを着用し、左手には軍帽と、アリアズナから贈られた時計を持っています。アリアズナはロシアの伯爵令嬢で広瀬武夫の恋人とされています。
広瀬神社の入口は、竹田郵便局の近く。広瀬武夫の銅像が立っています。広瀬武夫像の後ろにある長い石階段を上ります。この階段の途中は、「岡神社」の境内と隣接しています。岡神社は、初代岡城主中川膳正久盛公が崇敬した神社で、元々は岡城内にありました。
石階段を上り詰めると、正面に見えるのは、竹田市出身の陸軍軍人・阿南惟幾(あなみこれちか)の顕彰碑です。阿南惟幾は、終戦を迎える昭和20年4月に陸軍大臣に就任、同8月15日の玉音放送前に割腹自決しました。
境内参道の石階段を上り詰めると、まず正面に阿南惟幾(1887~1945)の顕彰碑があります。
階段より右手側の敷地に、広瀬神社の本殿や、広瀬記念館があります。広瀬神社は、城下町竹田を一望できる場所に建っています。山門をくぐる前の境内には、山門の左手前に社務所、山門の右手前に「広瀬記念館」があります。
廣瀬武夫(1868~1904)は、明治時代の海軍軍人です。竹田市出身で、小学生の頃に西南戦争で家を焼失してから、飛騨高山に移り住みます。
日清戦争や日露戦争への参戦、ロシアへの留学や、イギリス・フランス・ドイツの巡視など、新しいことに果敢にチャレンジし、竹田の片田舎から世界へ羽ばたいた人物でした。最後は、旅順港閉塞作戦で福井丸を指揮中に、部下を探して退避が遅れ、砲弾に倒れます。35歳の生涯でした。
決死的任務を敢行し、自らの危険を顧みず部下を案じて戦死を遂げたことから、日本初の軍神として神格化されました。唱歌が作られ、東京・万世橋駅(現存せず)前には、銅像が建てられました。
広瀬神社記
昭和10年に創建された当広瀬神社は、明治37、38年の日露戦争で、旅順港閉塞作戦に参加し、部下杉野兵曹長の姿を探し求め、一塊の肉片を残して戦死した元海軍中佐広瀬武夫を祭り、また、当地出身の戦没者1627柱を合祀している。
勤皇家の岡藩士の二男に生まれた広瀬武夫は単に勇猛武人であったのみでなく、当時ロシヤ研究家としても一流の人物であり、二千通にのぼる書簡、随想録等は文学的にも高く評価され、講道館に於けるエピソードと共に、人情に厚く高潔な人柄は今なお万人の敬慕を集めている。
広瀬神社の拝殿周辺には、「広瀬武夫胸像」をはじめ、「慰霊碑」、「旅順港閉塞作戦に使用された石」と「戦没者名簿」などが配されています。
この「広瀬武夫胸像」は、戦争の金属供出のため壊されたのですが、石膏で型をとって保存しており、それを元に復元されたものです。
文武の誉れ髙い 廣瀬武夫像
廣瀬武夫は、大政奉還の翌年1866年5月27日、岡藩勤皇の志士 廣瀬重武の次男として市内=茶屋の辻に生まれました。幼くして母を失い、父に教育され、14才の時、上京して攻玉社に学び、海軍兵学校を経て武官となり、ロシア・ドイツ・オーストリア等に留学。富国強兵の時流の中で質実剛健 至誠尽忠 文武両道の資質を高めました。
明治37年、日露戦争が始まると、ロシアの東洋艦隊根拠地である旅順港閉塞の決死戦に志願し、17名の部下を連れ2回爆沈作業に参加しました。(初回は報国丸、二回目は福井丸)
両岸の要塞と艦艇による猛攻を浴びながら、目標地点に到達し、爆破作業中に魚雷が命中、傾き沈みゆく船内での作業を終え引き上げようと人員点呼をすると、指揮官付きの杉野孫七兵曹長の姿がありません。他の隊員を短艇に移らせ、「杉野は、どこだ、杉野、杉野」と船倉を再三探しましたが、遂に杉野は発見できませんでした。
「指揮官これ以上は危険です。」という声に、武夫は、短艇に飛び移った。その時「指揮官がやられた。」と叫んだ兵士の顔に鮮血を散らし船べりに一片の肉を残して、暗夜の荒海に消えていった。武夫の頭に巨弾が命中したのです。
当時の全国民は、七生報国 一死心堅の辞世を地で行った、部下思いの武夫に涙しない人はいませんでした。死後、全国各地から武人の誉れとして神社に祀る運動が起こり、兵学校の級友であった岡田啓介(首相)財部彪、竹下勇大将らと地元黒川建士ら百数名の発起によって昭和10年 廣瀬神社が創建されました。この胸像は、戦前山下公園にあった立像を大戦中に金属回収で供出する際、石膏で胸像部分を保管していたものを、戦後、市費で復元したものです。
この戦没者名簿の台座に、旅順港閉塞作戦に使われた石が嵌め込まれています。廣瀬武夫が戦死した、第二次閉塞作戦での閉塞船「福井丸」の重しに使われた石が、日露戦争後、日本海軍によって引き揚げられ、広瀬神社に奉納されました。
昭和33年(1958年)の戦没者名碑建立の際に、台座にその石を8個嵌め込みました。
昭和38年(1963年)には松山市から所望されて、松山市梅津寺公園の秋山真之の銅像を建立する際に、寄贈しています。秋山真之は、愛媛県出身で、広瀬武夫の後輩で、旅順港閉塞作戦の立案者です。
広瀬記念館
広瀬神社の境内にある「広瀬記念館」は、名前の通り、広瀬武夫の遺品などを展示した記念館です。『廣瀬武夫記念館』『阿南惟幾記念館』と並んで館名板が掲げられており、郷土の軍人2人の遺品が展示されています。1階部分は戦艦朝日のカッターが展示されており、2階部分が資料館となっています。
2階に上る狭い階段には、昇降機が取り付けられています。社務所に声をかければ動かしてくれるそうです。その途中に入館料200円を払うポスト状の料金箱があります。
屋外展示されている戦艦朝日のカッターボートは、昭和12年に海軍から奉納されたものです。
戦艦朝日は、日露戦争時代の主力艦です。広瀬武夫は、1902年(明治35年)4月に戦艦朝日の水雷長を命じられました。
また、1904年開戦の日露戦争では、開戦時は引き続き朝日の水雷長を務めていました。
カッターの横には、巡洋艦比叡のマストの一部と金具が展示されています。
最終訪問日:2024.04.03.
広瀬神社 アクセス
名称 | 広瀬神社 |
住所 | 大分県竹田市大字竹田2020 |
TEL | |
URL |
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