雲厳禅寺
南北朝時代に元から渡来した禅僧・東陵永與(とうりょうえいよ)(1285~1365年)により建立された雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は、 境内西側にある岩洞・霊巌洞(雲厳洞とも)に安置された石体四面の馬頭観音「岩戸観音」を本尊としています。
金峰山(きんぽうざん)山麓にある雲厳禅寺の境内一帯は平安時代から修験の道場でありました。中国大陸から流れ着いたとされる石体四面の馬頭観音は古くから「岩戸の観音さん」と崇められ、平安期の女流歌人「桧垣」も日参し、後にその様子を世阿弥(ぜあみ・室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師)が謡曲「桧垣」として著しました。
南北朝時代に中国の帰化僧・東陵永與がこの観音様を御本尊として雲巌禅寺を開きました。
岩戸観音が安置されている「霊巌洞」の岩壁には、細川家の家老・沢村大学と、戦国時代の武将・鹿子木寂心(かなこぎじゃくしん)の逆修が彫られています。
江戸時代には宮本武蔵がこの「霊巌洞」に籠り、兵法「五輪書」や「三十五箇条の覚書」を書きました。
本堂から霊巌洞へと続く境内の岩山には宝永5年(1708年)に僧慈門、西念によって造られた「十六羅漢石像」「釈迦三尊石像」や、さらに安永8年(1779年)から25年間にわたって淵田屋儀平によって奉納された「五百羅漢」があります。
開山の東陵永與禅師像は、もとは雲巌禅寺にありましたが、現在は国指定重要文化財として熊本市立博物館に展示されています。境内には「平成の名水百選」に指定されている「金峰山湧水群」が湧いています。
岩戸の里公園
雲巌禅寺周辺一帯は「岩戸の里公園」とよばれ、駐車場に車を停めると、大きな宮本武蔵像が出迎えてくれます。そこから雲巌禅寺へと続くゆるやかで長い坂を下って行きます。
雲巌禅寺の入り口には古くからある大きな仁王石像が建っています。仁王像より境内に入ると、雲巌禅寺本堂があります。本堂前には「熊本水遺産」や「平成の名水百選」に選ばれている「金峰山湧水群」が湧いています。
本堂の向かい側に霊巌洞や五百羅漢への入口があり、そこで入場料を払います。杖の貸し出しもしています。最初に宝物館(と言ってもほんのちょこっと!)があり、宮本武蔵の肖像画などが展示されています。
十六羅漢・五百羅漢
歩きだすとすぐに岩肌に点在する「十六羅漢」「五百羅漢」が現れます。 どれが十六羅漢なのかは分かりません。
「五百羅漢」は熊本の商人・淵田屋儀平が安永8年(1779年)から享和2年(1802年)までの24年間に渡り奉納したと云われています。 永年の風雨や明治初頭の廃仏毀釈、1889年の大地震で完全な物は半分に減っています。「羅漢」とは釈迦の教えを聞いて悟りを開いた俗体の弟子の事であり、釈迦の信仰と共に羅漢も信仰の対象とされるようになりました。五百羅漢を見ると必ず自分の身内にそっくりな顔を見出せるとの言い伝えがあります。
五百羅漢が点在する岩山には、延命地蔵尊や閻魔堂、お地蔵さまや観音菩薩さまも安置されています。
霊厳洞・岩戸観音
一番奥にある洞窟が「霊巌洞」で、雲巌禅寺の御本尊である「岩戸観音」は、この霊巌洞の格子の奥に祀られています。
宮本武蔵は寛永20年(1643年)、60歳の時にこの霊巌洞に籠り、二天一流の兵法書「五輪書」を書きました。その2年後の1945年、亡くなる数日前に兵法の弟子寺尾孫之允に五輪書を授けています。 今から370年近く昔の事です。
霊厳洞正面の急な階段を上り、洞窟の中に足を踏み入れると、真ん中には「船頭石」という大きな岩があります。そして洞窟の奥には格子に守られた「岩戸観音」が祀られていますが、格子の中に更にお社があり、とても厳重に守られている石体四面の馬頭観音様は良く見えませんでした。
霊厳洞の岩壁には、細川家の家老・沢村大学(熊本藩細川家初代・細川忠興の家臣であった)と、戦国時代の武将・鹿子木寂心(かなこぎじゃくしん)の逆修が彫られています。
最終訪問日:2011.01.16.
雲巌禅寺 アクセス
名称 | 雲巌禅寺 |
住所 | 熊本県熊本市西区西区松尾町平山589 |
TEL | 096-329-8854 |
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