宮崎県都城市には、太平洋戦争末期に特攻隊の出撃基地となった「都城東飛行場」と「都城西飛行場」がありました。現在は静かな農地や住宅地となっていますが、当時の痕跡を伝える飛行場の碑が残されています。
両飛行場は旧陸軍の特別攻撃隊「振武隊」の出撃基地となり、1945年4月6日から7月1日にかけての特攻で、全部で10隊、79人が沖縄の空へ出撃していきました。
戦争末期、都城には「東」「西」「北」と3つの飛行場がありました。最後(昭和20年(1945年))に完成した「都城北飛行場」にも特攻隊が配置されましたが、幸いなことに出撃はありませんでした。
都城東飛行場跡(都北町緑地広場)
「都城東飛行場」は、昭和19年(1944年)前半に海軍が地元住民の協力で急造しました。草原のような自然地形で、表面が荒れ、南北約1,500m、東西約500mの大きさで、たこ足のように伸びた形状でした。周囲には掩体壕が多数配置されていました。完成後は海軍が零戦の訓練に使用していました。
昭和20年(1945年)3月に、沖縄戦に備えて陸軍第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開し、以降は陸軍専用基地となりました。
同年4月から都城からの特攻が始まりますが、最初の4月6日・12日は西飛行場からの出撃でした。4月27日・28日の空襲で西飛行場が壊滅し、西飛行場で出撃をする予定だった部隊が東飛行場に移動して出撃します。以降の出撃は全て東飛行場から行われました。
終戦後、東飛行場跡は開拓地となり、現在は住友ゴム工業をはじめとする工場が多く立ち並んでいます。
「特別攻撃隊出撃の地/旧都城東飛行場跡」の祈念碑と説明版が建っているのは、「都北町緑地広場」という公園です。公園名が入口正面にある花壇?(木が植えられている)のレンガにはめ込まれているので、探しにくいです。隣接する「旭自治公民館」を目印にすると分かり易いです。
鎮魂(都城東飛行場)
太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。
都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急造したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五〇〇メートル、東西に五〇〇メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。
当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。
同年三月十八日に西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。
また、部隊の宿舎も東南側の五〇メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。
同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後(昭和二十年)
五月四日 第六次航空総攻撃にあわせて、第 六十振武隊(六名)
五月十一日 第七次航空総攻撃にあわせて、第 六十振武隊(三名)
第六十一振武隊(三名)
五月二十五日 第八次航空総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
第五十八振武隊(十名)
第 六十振武隊(一名)
第六十一振武隊(一名)
五月二十八日 第九次航空総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
第五十九振武隊(三名)
六月八日 第十次航空総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日 航空総攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)
六月二十二日 第二十七振武隊(六名)
第百七十九振武隊(五名)
七月一日 第百八十振武隊(二名)
次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。
同年八月十五日、終戦を迎えた。
諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。
平成十三年六月吉日
都城徳穂説攻撃隊戦没者奉賛会
会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。
都城西飛行場跡
「都城西飛行場」は、昭和8年(1933年)に都城歩兵第23連隊が満州事変から凱旋したのを記念して、翌年末に一般市民の勤労奉仕等により建設されました。昭和17年(1942年)4月には逓信省航空乗員養成所が設置され、95式練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていました。
建設当初は「都城飛行場」と呼ばれていましたが、太平洋戦争末期に東と北にも飛行場が建設された為、東飛行場が建設された昭和19年(1944年)からは「西飛行場」と呼ばれるようになりました。飛行場はほぼ正方形の形状で、対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和20年4月頃までには1200mまで延長されました。
昭和19年(1944年)からは明野教導飛行師団の訓練基地として一式・四式戦闘機の訓練を実施しました。
昭和20年(1945年)3月には沖縄戦に備えて特別攻撃隊が終結しており、4月6日、12日に第一特別振武隊の10名が出撃していきました。
4月27日、28日の空襲で飛行場は壊滅し、出撃予定だった第61振武隊の7名は東飛行場から飛び立って行きました。
戦後、西飛行場跡は公共住宅群が建設され、一部は陸上自衛隊の都城訓練場に転用されました。現在、「特別攻撃隊出撃の地/旧都城西飛行場跡」の祈念碑と説明版が建つのは、市営都原団地の南東の角です。
鎮魂(都城西飛行場)
太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立って行った。
都城西飛行場は、昭和八年都城歩兵二十三連隊が満州事変から鎧旋したのを記念して、昭和九年末に一般市民及び諸団体の勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。
昭和一七年四月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信省航空乗員養成所が設置され、九五式一型乙中間練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていた。
太平洋戦争が始まり、昭和十九年には明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が西飛行場に展開していて、一区隊(陸士五十七期と甲種幹部候補生転科の少尉)、二区隊(少年飛行兵)の二隊が一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。
翌年の昭和二十年三月には、南九州の各基地に来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結しており、都城東・西飛行場には第百飛行団、四式戦(疾風)装備の飛行第百一・百二戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
同年三月十八日に午前七時頃初めての空襲を受けたが、地上勤務員によりほぼ復旧している。
同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立ち若い命を散らしている。
同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後、出撃は都城東飛行場からとなり同年八月十五日終戦を迎えた。諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。
平成十三年六月吉日
都城特別攻撃隊戦没者奉賛会
会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。
最終訪問日:2025.04.15.
都城東・西飛行場 アクセス
| 名称 | 都城東飛行場跡(都北町緑地広場公園) |
| 住所 | 宮崎県都城市都北町7502-1 |
| TEL | |
| URL |
| 名称 | 都城西飛行場跡(市営都原団地内) |
| 住所 | 宮崎県都城市都原町29-2 |
| TEL | |
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