
爆弾池
宇佐海軍航空隊について
宇佐海軍航空隊は、南北1.3km、東西1.2kmの飛行場として、昭和14年(1939年)10月1日に開隊しました。開隊当初は、艦上爆撃機・艦上攻撃機の実戦機を使った操縦と偵察の練習航空隊として、隊員数約800名で始まりました。宇佐空では2人乗りの「九九式艦上爆撃機」、3人乗りの「九七式艦上攻撃機」を主に用いて訓練を行いました。卒業後は実戦部隊に配属され、真珠湾攻撃などの作戦に参加しました。
しかし、戦局に敗色が濃くなってくると、昭和20年(1945年)1月頃から有蓋掩体壕が作られるようになり、2月11日には宮崎基地より神雷部隊の一部が転入してきます。神雷部隊は第721海軍航空隊の通称で、人間爆弾「桜花」による特別攻撃隊でした。その頃から練習航空隊ではなく実戦部隊となり、神風特別攻撃隊の中継基地となりました。宇佐海軍航空隊でも、神風特別攻撃隊である「八幡護皇隊」が編成され、沖縄の特攻作戦へ飛び立っていきました。
宇佐への空襲は、昭和20年(1945年)3月18日の米軍艦載機での空襲が初めてで、4月21日の米軍爆撃機B-29の空襲では航空隊が壊滅的な被害を受けました。宇佐への空襲は計10回行われ、航空関係者や民間人も含め多くの犠牲者が出ました。
昭和20年(1945年)4月21日、米軍の爆撃機B-29が初めて宇佐に飛来した際にできた爆弾の痕です。宇佐には同年3月18日に米軍艦載機による空襲が始まり、B-29での爆撃はこの日が初めてでした。
この空襲で、米軍は11分間に136トン以上の爆弾を投下し、航空隊関係者だけで320人が亡くなり、また多くの民間人も犠牲になりました。宇佐への空襲は、計10回行われたとされています。
爆弾の痕に水が溜まり、池のようになったことから、「爆弾池」と呼ばれています。この爆弾池は、本来は直径10メートルほどの大きさがありました。
当時は沢山の爆弾池がありましたが、戦後殆どが埋め戻され、宇佐に残る爆弾池は、現在はここと今宮神社境内のみのなっています。
現在は爆弾池の周囲が整備され、爆弾池を見下ろす展望台が設置されています。展望台からは、かつての宇佐海軍航空隊の敷地であったところが一望できます。遠くに現存する「城井一号掩体壕」など掩体壕の姿も確認できました。
宇佐海軍航空隊の飛行場は、南北1.3km、東西1.2kmの広さがあり、水はけを良くするため、飛行場の全域に鉄筋コンクリート製の排水溝や暗渠排水管といった排水施設が設置されました。排水施設の一部は、今でも飛行場跡に残されています。
ここに展示しているのは、発掘調査で「発動機試運転場」付近で出土した暗渠排水管で、直径36cm、高さ2mの円筒管です。
最終訪問日:2025.04.12.
爆弾池 アクセス
| 名称 | 爆弾池 |
| 住所 | 大分県宇佐市大字川部536-2 |
| TEL | |
| URL |
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