
高烏砲台跡(高烏台展望台)
音戸の瀬戸公園 の頂上部分にある、日本帝国陸軍が建設した砲台跡です。呉の島々や山間部に築かれた13基の砲台(呉要塞)のうちのひとつで、広島港と呉海軍港を敵船の接近から守るために築かれました。
高烏砲台は、明治34(1901)年に、本土と倉橋島を隔てる音戸の瀬戸海峡を見渡す標高218mの高烏(たかがらす)台に、28センチ榴弾砲(りゅうだんほう)6門を装備した砲台を完成させ、外国艦船の侵入に備えました。その砲台基礎や弾薬庫の一部と兵舎跡などが、120年以上経った今でも立派な外観を保って残されています。
海戦に備えて造られた高烏砲台ですが、1920年代後半から、海戦から陸戦が主流になったことで、実際に戦闘に使われたことはなく、大正15(1926)年に廃止されました。
その後、旧海軍に移管され、昭和期に入ってから高角砲が設置され、防空砲台として使用されました。この海軍が設置した高角砲は、第二次世界大戦で全壊しており、遺構は残されていないそうです。
高烏砲台は、戦後は廃墟となっていましたが、昭和36(1961)年に、この一帯が「音戸の瀬戸公園」として整備されました。昭和42(1967)年には、高烏砲台にあった「高烏砲台火薬庫」が入船山記念館に移築されています。現在は、駐車場やトイレ、平清盛像が設置され、展望台にもなっています。また、日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~」 の構成資産のひとつとなっており、説明版などが設置されています。
現在、駐車場の正面には、同じ形状の砲座跡が3つ並んでおり、各砲座の右側に半地下の砲側庫があります。
右端の砲座から、斜め後ろにスロープが設置されており、そこから平清盛像と展望台へ。
「平清盛日招像」の前に広がる景色は、音戸大橋の架かる「音戸の瀬戸」の方向です。
石造りの展望台からの景色は、愛媛県方面が望めます。
音戸の瀬戸海峡を見渡せる展望台には、「平清盛公日招像」があります。
元々この海峡は繋がっており、平安時代末期、安芸の守に命じられた平清盛は、宋との貿易を盛んにし、瀬戸内海の交通と厳島神社への航路を便利にするために、1165年に音戸の瀬戸を開削たと伝えられています。
工事が完成間近だったある日、その日のうちに工事を完成させたかった平清盛は、日没になって日が沈み始めると、岩の上に立ち、金扇を広げ「返せ!戻せ!」と叫んだところ、太陽が戻り、工事が完成したという「日招き伝説」が残っています。
「平清盛日招像」が建つ展望所の下にも、旧高烏砲台の遺構があります。観測所の遺構と言われています。外側の重厚な造りに対して、掩蔽部の中はかなり狭いです。この上段に建つ平清盛日招像の台座の丸い部分が、観測所の台座かもと言われていますが、真意の程は不明。
更に下段には「兵舎跡」があります。明治時代に高烏砲台を整備した際に、兵舎として造った建物です。兵舎を含む高烏台砲台に使われている石は、建物の位置から南西側の公園内の斜面から産出された花崗斑岩です。
花崗斑岩造りの兵舎は、外側は石の凸凹を生かしてありますが、内側は石を研磨してフラットにしてあります。屋根部分は全く存在せず、木製だったと言われています。
最終訪問日:2024.06.15.
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高烏砲台跡 アクセス
名称 | 高烏砲台跡 |
住所 | 広島県呉市警固屋町 |
TEL | |
URL |
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