平和記念公園《南側》(広島平和記念資料館前散策)
❖ 嵐の中の母子像 ≫祈りの泉・嵐の中の母子像のページへ≪
広島平和記念資料館 の南側、祈りの泉を背にして、中央正面に建つブロンズ像です。設計者は彫刻家の本郷新。右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表すブロンズ像で、高さ1.5m、幅1.6m、奥行き65cmです。
昭和35年(1960年)8月5日、核兵器廃絶への限りない努力を呼びかけることを目的として、広島市婦人会連合会によって建てられました。
❖ 平和記念ポスト
広島平和記念資料館・東館の南側に、御影石製の郵便ポストがあります。1952年(昭和27年)第4回郵便友の会全国大会を機に、郵便の使命を通じて平和記念都市を象徴するブロンズ像として設置されました。一見するとモニュメントの様に見えますが、現在も稼働している実際のポストです。ポストの上部には、書状を掲げた少年少女の青銅製の像が据えられており、彫刻作者は圓鍔勝三氏です。
❖ 友愛碑
平和記念公園の南側、平和大通り緑地にあります。昭和40年(1965年)8月3日、日本損害保険協会広島地方委員会により建立されました。日本損害保険協会加盟社の原爆犠牲者89人の慰霊と、平和へのいしずえを祈念したものです。ブロンズ製の彫刻と、万成石(まんなりいし)の台石からなり、彫刻の十字形は東西南北の人間が手をつないでいる姿を表しています。
❖ 平和の像「若葉」
広島国際会議場の南側、平和大通り緑地にあります。昭和41年(1966年)5月9日、広島南ロータリークラブが創立10周年を記念して建立しました。製作者は広島県御調町出身の彫刻家、圓鍔勝三氏です。台座である歌碑の上に、1.8mの少女と小鹿のブロンズ像が立っています。
台座に刻まれているのはノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の短歌です。日本初のノーベル賞(物理学賞)受賞者湯川博士は、昭和29年(1954年)アメリカの水爆実験に衝撃を受け、以降、核兵器と戦争の廃絶を訴え続けました。
碑文「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」(湯川秀樹)(「まがつび」とは災害・凶事、それらを起こす神の意)
❖ 広島市商・造船工業学校慰霊碑
広島国際会議場の横、本川沿いにある慰霊碑です。広島市立商業学校は、戦争末期の国策により、私立造船工業学校に転換させられました。被爆当時、爆心地から約500mの距離で、材木町誓願寺付近の建物疎開作業に出動していた市立造船工業学校の1年生195人、職員5人のうち、作業中に病院に行った1人を除き、全員が亡くなりました。爆心地に近く、遺骨もほとんど不明、わずかに弁当箱や焼け残った衣類が落ちているだけでした。原爆による犠牲者は、その他の動員先や登校中の者を含め、270人にのぼりました。
❖ 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
広島国際会議場の前の、平和大通りとの間の緑地帯にあります。ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げているブロンズ像です。像を取り囲むように千羽鶴の献物台があり、色とりどりの千羽鶴が明るく輝いていました。
初等科の3年生以上は強制的に疎開させられていた為、原爆投下時に犠牲となったのは、幼い初等科の1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒たちでした。犠牲となった国民学校の教師・生徒の数は正確には分かっていませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。
最終訪問日:2024.06.13.
平和記念公園 アクセス
名称 | 平和記念公園 |
住所 | 広島市中区中島町1及び大手町1-10 |
TEL | |
URL |
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