二の丸
広島城「二の丸」は、本丸の南方にある小さい区画で、馬出(うまだし)と呼ばれる構造です。馬出は、出入り口を守り、外部へ出撃する際の拠点としての役割を持っていました。
現在の二の丸には、復元された建物「表御門」「平櫓」「多聞櫓」「太鼓櫓」があります。残された設計図や写真などを元に、伝統的な工法で復元され、創建当時の姿が再建されています。3つの櫓の内部は繋がっており、平櫓と表御門は階段で結ばれていますので、全ての建物の中を見学することができます。
広島城内には、戦争の遺構や爪痕が残されています。ここ二の丸付近には、2本の被爆樹木があります。「被爆樹木ユーカリ」と、「被爆樹木マルバヤナギ」で、今でも逞しく生き続けています。爆心地から約740mという距離で被爆し、黒焦げになりながらも、新芽を芽吹かせ、人々の希望にもなりました。
表御門(おもてごもん)
現在の広島城正面入口に当たるのが「表御門」です。櫓門と呼ばれる形式の門で、江戸時代から原爆で焼失するまでの約350年間ここに在りました。現在の建物は平成3年に復元されたもので、建物内部を見学することができます。
表御門の前に架かる橋は「御門橋」と呼ばれる木橋です。
史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
規模 桁行 7.64m、梁間 4.85m、軒の出 1.27m、軒高 7.03m、棟高 10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付
表御門は天正末期(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も存在した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓
広島城を南側から見ると、左端に建つのが「平櫓」で、その横に伸びるのが、両端の櫓を繋ぐ「多聞櫓」、右端に「太鼓櫓」があります。3つの櫓は繋がっており、多聞櫓の西側を入口にして、内部を見学できます。中には展示物や説明版が設置されています。
壁に開いた□や△の穴は、「狭間(さま)」と言って、この穴から火縄銃や弓で敵を攻撃しました。正方形や三角の穴は火縄銃で攻撃するための鉄砲狭間、長方形の穴は矢を放つための矢狭間でした。
平櫓・多門櫓・太鼓櫓(復元)
構造 平櫓 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺
多門櫓 木造一重渡櫓、切妻造、本瓦葺
太鼓櫓 木造二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺
規模 平櫓 桁行 12.43m、梁間 8.64m、棟高 7.76m
多門櫓 桁行 67.86m、梁間 4.93m、棟高 5.13m
太鼓櫓 桁行 8.49m、梁間 7.76m、棟高 10.60m
平櫓、多門櫓及び太鼓櫓の建設時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されます。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多門櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多門櫓東半分についても昭和20年8月6日の原子爆弾によって倒壊炎上しました。
この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。
最終訪問日:2024.06.13.
広島城 アクセス
名称 | 広島城 |
住所 | 広島県広島市中区基町21番1号 |
TEL | 082-221-7512 |
URL | https://www.rijo-castle.jp/ |
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