東山手十二番館
「東山手十二番館」は、明治時元年(1868年)に建てられた洋風建築物で、 長崎市大浦・東山手に現存する洋館としては最も古いものです。建築主はジョン・グリア・ウォルシュです。
竣工後ほどなくロシア領事館が置かれ、その後、アメリカ領事館、アメリカの宣教師(プロテスタントのメソジスト派)の住宅として使われました。
昭和16年(1941年)には活水学院に譲渡され、昭和51年(1976年)に長崎市に寄贈されました。
現在は、旧居留地私学歴史資料館として、居留地時代に建設された多くの私学に関する歴史的資料を展示しています。
明治時代、長崎の居留地には宣教師によって私学校が創設されました。私学とは、キリスト教団体が異教徒の多い国に布教の目的で設立した学校(ミッションスクール)のことで、東山手地区には数多くのミッションスクールが建てられました。
プロテスタント系の宣教師が多く、改革派のスタウト夫妻がスチール記念学校(現・明治学院)、スターヂェス女学校(現・梅光女学院)を設立。
メソジスト派のラッセルが活水女学校(現・活水学院)を、ロングが加伯利英和学校(現・鎮西学院)を設立。
聖公会派のグッドオールが女子塾(現・長崎女学校)を設立。
カトリック系では、バルツが海星学校(現・海星学園)、ベルセールが聖心女学校(現・親愛学園)を創立しました。
東山手十二番館の建物は、活水学院とゆかりのあるものなので、活水学院に関する展示も多数ありました。
最終訪問日:2026.02.19.
☆長崎の外国人居留地☆
外国人居留地は、欧米諸国との修好通商条約の締結によって制度化され、長崎には大浦や浪の平の海岸を埋め立てて造成されました。居留地は日本の治外法権の地区で、外国人の自治領域でした。
慶応2年(1866年)には外国人居留地の造成がほぼ完成しており、居留地は、大浦地区、下が松地区、東山手地区、南山手地区、梅香崎地区、出島地区、新地・広馬場地区に分けられました。
平地である大浦、下り松、出島には領事館・商社・ホテル・工場などが多く、東山手・南山手などの山手には教会や個人住宅が建てられました。特に東山手には学校が多くありました。
居留地の制度は、明治32年(1899年)の条約改定で撤廃されました。
東山手十二番館 アクセス
| 名称 | 東山手十二番館 |
| 住所 | 長崎県長崎市東山手町3-7 |
| TEL | 095-827-2422 |
| URL |





















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