原のキリシタン墓碑「INRI」(朽網のキリシタン墓碑)
原(はる)のキリシタン墓碑「INRI」 は、長湯温泉 からほど近い場所、県道30号から約1kmほど山里に入った原(はる)地区にあります。かつては、現在の久住町と直入町辺りを朽網(くたみ)と呼んでいたことから、「朽網のキリシタン墓碑」とも呼ばれます。
T字型の石の中に「INRI」と彫られたものですが、これはルカスというキリシタンのお墓の上に建てられた、大きな十字架の一番上の部分なのではないかと考えられています。また、「ルカス」は朽網地方を治めていた朽網氏のことではないかと考えられています。
「INRI」とは、ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭文字で、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という意味です。イエス・キリストの磔刑の際に、十字架の上に掲げられた罪状書きの頭字語でした。
竹田市には古くからキリシタン文化が根付いていたと考えられています。
1551年(天文20年)に大友宗麟が府内(現大分市)にフランシスコ・ザビエルを招いたことから、豊後地方でのキリシタン文化の種が蒔かれたことから始まります。
現竹田市では、朽網地方(現在の久住町と直入町辺り)を治めていた朽網氏が、大友宗麟の家臣であり、キリスト教の布教を容認したため、信者が増加していきました。これが1550年代頃のことです。
その後、志賀氏最後の岡城主となった志賀親次(ちかよし)がキリシタンであったことから、岡城下でキリシタンが増加していきました。志賀親次は、大友宗麟の娘を養母に持つ縁があり、キリスト教に傾倒していたようです。これが1580年代頃のことです。
次いで岡城に入城し、岡藩主となった中川氏の時代では、初代秀成(ひでしげ)はキリスト教に寛容だったとされています。中川氏は家紋を2つ持ち、そのひとつは「中川クルス」と呼ばれる十字架をモチーフとしたものでした。
朽網地域のキリシタン遺産
竹田市でのキリスト教の信仰と布教活動は、豊後におけるキリスト教布教の中心的聖地である府内教会設立(1553)の翌年から始まり、豊後国の中でもいち早く行われました。布教の中心は、かつて「朽網」と呼ばれた現竹田市久住町都野地区から竹田市直入町長湯地区にかけての地域で、16世紀後半に豊後国で最初の教会が建てられたといわれています。1561年、朽網に1ヶ月滞在したフェルナンデス修道士は、この教会について「大きさは現国王(大友宗麟)の宮殿(屋敷)のある当市(府内)会堂に劣らず、これよりも立派なり」と賛辞をおくっています。
また、領主である朽網氏が布教を容認していたため、信者はまたたく間に増加し、朽網は日本八大布教地の一つと呼ばれるようになりました。現在もこの地域には、「原のキリシタン墓碑」「日向塚千十字架残欠」などのキリシタン遺跡を見ることができます。
原のキリシタン墓碑 大分県指定史跡
竹田市直入町原地区に残される「原のキリシタン墓碑」は、石製の千十字架の最上部にあたり、前面に「INRI」と線刻で記されています。これは、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味し、キリストが十字架にかけられたとき罪標に記されていた言葉です。
1562年イエズス会士の書翰に「豊後(府内)より9レグワ(50㎞)の朽網に名をルカスというキリシタンあり、自費を以って甚だよき大会堂を建築し、~中略~石の大十字架を建て、己の死した十字架の下に埋葬せんことを命じたり」とあり、この墓碑はルカスの墓の上に建てられた十字架の上部ではないかといわれています。
最終訪問日:2024.04.04.
原のキリシタン墓碑「INRI」 アクセス
名称 | 原のキリシタン墓碑「INRI」 |
住所 | 大分県竹田市直入町大字長湯4598 |
TEL | |
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