城井1号掩体壕
掩体壕は、軍用機を空襲から守るための施設です。宇佐海軍航空隊では、昭和19年(1944年)8月頃から建造が始まりました。
宇佐市内には現在も、コンクリート製で屋根付きの「有蓋掩体壕」が10基、コの字型に土を盛り、上を木などで覆って飛行機を隠した「無蓋掩体壕」が1基残っています。
城井1号掩体壕 は、平成7年(1995年)の「沖縄陸軍病院南風原壕群」に続き、戦争遺跡としては全国で2番目に史跡指定されました。周辺が史跡公園として整備され、駐車場・トイレを完備しています。
城井1号掩体壕 は、幅21.6メートル、奥行14.6メートル、高さ5.4メートルの掩体壕で、前半部は型枠にコンクリートを流し込んで造られ、後半部は土盛りにコンクリートを流して造っています。
掩体壕の前面・内部を見ると、型枠に使った板の痕がはっきりと残っています。内部の主体格納部分である前半分は、型枠の痕が綺麗に残っていますが、尾翼を格納する後ろ半分はデコボコしており、土盛にコンクリートを流したことが分かります。後ろに通気口が開いています。
城井1号掩体壕の内部には、国東沖で引き揚げられたゼロ戦のエンジンとプロペラが展示してあります。
当時掩体壕の上部には、カムフラージュするために土が盛られて草を生やしていましたが、米軍の撮影した当時の航空写真には掩体壕がはっきり写っており、効果は余りなかったとされています。
宇佐の掩体壕は全て入口の向きが異なっており、防弾効果を上げるためにわざと向きを変えていたのではないかと言われています。
城井1号掩体壕の周囲は史跡公園化されており、「鎮魂の碑」や「平和記念碑」、米国から贈られた友好のハナミズキなどが設置されています。
「鎮魂の碑」と掩体壕の間にある石碑には、宇佐海軍航空隊の神風特別攻撃隊で昭和20年4月6日から5月4日の間に戦没された154名のお名前が刻まれています。
特攻隊を見送った人を模したモニュメントである「平和記念碑」と友好のハナミズキは、城井1号掩体壕と、現在の市道である滑走路跡に設置されています。
城井2号掩体壕(仮称)
城井地区には4基の掩体壕が現存しています。宇佐市が保存整備しているのは「城井1号」のみで、他は民間の農機具倉庫などに使われています。この4基は近くにありますので、歩いて見て回ることができます。他の掩体壕に名前はないのですが、見分けるために、1号から近い順に番号を付けてみました。
2017年に訪問した、宇佐の掩体壕に関する記事はコチラ☟
🔗 宇佐の掩体壕群
最終訪問日:2024.04.12.
宇佐海軍航空隊について
宇佐海軍航空隊は、南北1.3km、東西1.2kmの飛行場として、昭和14年(1939年)10月1日に開隊しました。開隊当初は、艦上爆撃機・艦上攻撃機の実戦機を使った操縦と偵察の練習航空隊として、隊員数約800名で始まりました。宇佐空では2人乗りの「九九式艦上爆撃機」、3人乗りの「九七式艦上攻撃機」を主に用いて訓練を行いました。卒業後は実戦部隊に配属され、真珠湾攻撃などの作戦に参加しました。
しかし、戦局に敗色が濃くなってくると、昭和20年(1945年)1月頃から有蓋掩体壕が作られるようになり、2月11日には宮崎基地より神雷部隊の一部が転入してきます。神雷部隊は第721海軍航空隊の通称で、人間爆弾「桜花」による特別攻撃隊でした。その頃から練習航空隊ではなく実戦部隊となり、神風特別攻撃隊の中継基地となりました。宇佐海軍航空隊でも、神風特別攻撃隊である「八幡護皇隊」が編成され、沖縄の特攻作戦へ飛び立っていきました。
宇佐への空襲は、昭和20年(1945年)3月18日の米軍艦載機での空襲が初めてで、4月21日の米軍爆撃機B-29の空襲では航空隊が壊滅的な被害を受けました。宇佐への空襲は計10回行われ、航空関係者や民間人も含め多くの犠牲者が出ました。
城井1号掩体壕 アクセス
| 名称 | 城井1号掩体壕池 |
| 住所 | 大分県宇佐市大字 |
| TEL | |
| URL |
























コメント