島原城『天守閣』
島原城の天守閣は、白い五層の天守閣で、高さは約33メートルあります。1964年(昭和39年)に復元されました。五層五階建てで、地下1階があり、入口が地下部分に当たります。日本のお城の高さランキングでは、全国で3番目の高さです。
内部の展示は、1階が「キリシタン史料館」、2階が「郷土史料館」、3階が「民俗史料館」、4階が「休憩室・観光物産コーナー」、5階が「展望台」となっています。
天守閣の全景を捉えて写真を撮るには、西の櫓からの撮影がおすすめです。登場記念の日付パネルも設置されています。
天守閣の石垣は、緩やかな曲線を描く屏風折れが特徴です。
天守閣の石垣部分の階段を上ると、そこが地下1階に当たる部分で、券売所があります。そこから更に階段を上って、展示スペースは1階からです。
❖ 1階「キリシタン史料館」
天守閣の1階は、キリシタン史料館で、島原半島とキリシタン文化について主に展示されています。展示内容は、キリスト教伝来から、キリシタン大名となった初代領主・有馬晴信のキリシタン王国時代に始まり、江戸幕府の禁教令に伴う激しいキリシタン弾圧や、その中でも信仰を守り通した人々のこと、2代目藩主松倉勝家の圧政から国内最大の一揆となった島原・天草一揆についてなど、多くの史料が展示されています。
日本へのキリスト教伝来は、今から470年以上も前、天文18年(1549年)にイエズス会の創設者のひとり、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが始まりです。
ザビエルは、鹿児島→平戸→山口→京都→山口→府内(大分)と、日本に約2年滞在しました。
島原半島へのキリスト教伝来は、永禄6年(1563年)です。
イエズス会のルイス・デ・アルメイダが南島原の口之津港に来航し、布教をはじめると、瞬く間に広まっていきました。南蛮貿易に乗り出した領主の有馬氏もキリスト教に改宗するなど、キリシタン大名の庇護下でキリスト教信徒はどんどん拡大していきました。
キリスト教の学校であるセミナリヨとコレジヨも有馬に開かれ、天正10年(1582年)にはこの有馬のセミナリヨから天正遣欧少年使節が派遣されました。彼らは、ヨーロッパへ渡り、はじめて帰国した日本人なのです。
順調に布教活動が行われていたキリスト教でしたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」を発令し、布教を禁止します。伴天連とは宣教師のことで、この時点では宣教師の国外追放のみで、キリスト教信仰自体は禁止されていませんでした。
しかし、慶長元年(1596年)に豊臣秀吉による二十六聖人殉教事件が起こります。そして徳川家康の江戸幕府は、慶長17年(1612年)に天領に、翌年に全国に禁教令を発令します。激しいキリシタン弾圧が始まりました。
展示物の中に、カトリック島原教会 のステンドグラスの写真があります。島原半島で起こったキリシタン弾圧の様子が描かれています。
左の写真は、有馬川の殉教の様子です。
キリシタン大名の有馬晴信の跡を継いだ直純は、徳川家康と懇意であったため、禁教令を受けて改宗し、重臣たちにも棄教を求めました。しかしそれに従わなかった3人の重臣とその家族8人が、有馬川の中州で火あぶりの刑で殉教しました。その様子は2万人余りの信者が見守る中で行われたということです。
中央の写真は、島原海の殉教。
有馬氏が延岡へ転封されると、島原地方は一時的に幕府の管轄となり、その後の松倉重政の統治が始まると、更に取り締まりが激しくなりました。1627年2月21日には島原城の牢屋から16人の信者が引き立てられ、島原の海で処刑されました。5歳のイグナチオ内堀は、指を切られても、切り取られた手を苦しみもせず真っ赤なバラでも眺めるように見つめていたといいます。
右側の写真は、雲仙地獄の殉教。
領主松倉重政は「地獄責め」の刑罰を思いつきます。1627年2月28日、島原村の有力信者をはじめ16人は島原から引き立てられ雲仙へ向かいました。裸にされ首に縄がつけられ、雲仙地獄に飛び込めと命じられました。さらに5月17日、口之津、深江、八良尾の庄屋、島原の武士たち10人が雲仙地獄へ引き立てられました。
禁教時代に隠れて信仰を続けた、マリア観音なども展示されています。
雲仙地獄の「地獄責め」の様子の版画です。オランダで1669年に刊行されたモンタヌス著『日本誌』に掲載されているものを版画で再現しています。
キリシタン大名に関する展示もあります。豊後国(大分県竹田市)の岡城主中川家「中川クルス」紋が入った茶碗や、筑後国(福岡県柳川市)の立花家祇園クルス紋入り御用箱などがありました。
キリシタン墓碑についての展示です。
島原半島には約120基のキリシタン墓碑が残されています。有馬晴信が領主であった時期の島原半島は、領主を筆頭に殆どがキリシタンであったそうです。
島原城本丸北側にも、4基のキリシタン墓碑が集められて展示されています。
「島原の乱」についての展示では、原城跡から出土した黄金の十字架が展示されています。
以前は「島原の乱」と呼ぶことが多かったのですが、島原・天草で起こった一揆であること、乱よりも一揆の側面が強いことから、今は主に「島原・天草一揆」と表記するようになりました。
寛永14年(1637年)に「島原の乱」「島原・天草一揆」などと呼ばれる大きな一揆が起こりました。島原半島では、特に南部地方は全村をあげての参加をし、後で天草勢も参加して、その数約27,000人(37,000人とも)となりました。
島原半島はキリシタン大名である有馬晴信の統治のもと、キリスト教信仰が盛んでした。しかし有馬氏が転封となり、松倉重政が入封します。島原城が築城されたのもこの頃です。松重重政は、城や城下町の整備、その他の政策のため、過度な年貢の取り立てを行いました。
続く松倉勝家が跡を継いでからも、年貢率を高めたり、天候不順でも過酷に税を取り立てるなど、農民たちの暮らしは過酷を極めました。それに加えて松倉氏によるキリシタンの迫害もあり、また寛永14年の飢饉も重なったことで、領民の不満は高まっていきました。
寛永14年6月頃には、島原と天草の代表が湯島で会談し、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の天草四郎を一揆軍の総大将にすえ、決起することを決めています。
寛永14年10月25日に代官の取り締まりに反発して、島原半島南部の村々で一揆が始まりました。翌日には松倉氏の居城である森岳城(島原城)を攻撃しますが失敗し、28日には参加した島原一揆勢が原城跡へ引き籠もります。
続いて対岸の天草地方でも一揆が起こります。天草では本渡城や、富岡城などに攻め入りました。島原・天草の両地域で繰り広げられた反乱は、その後島原に合流し、廃城となっていた原城に結集しました。
一揆の終盤は、島原半島南目地方、及び天草地方の領民、併せて約37,000人が原城に立て籠もりました。それに対して鎮圧に当たった幕府軍は総勢12万人だったと言われています。最終的な原城への籠城は、12月から翌年2月までの約3ヶ月間でした。
最終訪問日:2024.11.16.
☟ 島原城 関連記事 ☟
島原城 アクセス
名称 | 島原城 |
住所 | 長崎県島原市城内1丁目1183-1 |
TEL | 0957-62-4766 |
URL | https://shimabarajou.com/ |
近隣スポット
PR | Information


島原港駅・島原港より徒歩5分! 有明海の海の幸をご堪能下さい。 100%源泉掛け流しの温泉。6:00~24:00ご入浴時間です。 温泉以外にシャワー室を2ルーム完備 ★全室 Wi-Fi 利用可能


≪ファミリーにもカップルにも大人気!◎毎日無料イベント開催≫\人気のロウリュウサウナ&天然湧水の水風呂!絶景外気浴で究極のととのい体験/★朝日を望むオーシャンビュー客室&爽快な露天風呂♪

【Amazon.co.jpで見る】
【楽天ブックスで見る】
大村・鍋島・龍造寺・有馬・松浦氏ら、群雄が割拠した往時を偲ばせる空堀や土塁、曲輪が訪れる者たちを魅了する。佐賀・長崎の各県から精選した名城68を、豊富な図版を交えながらわかりやすく紹介する。
LINK , TAG , Others…
🔗《福岡発!! 九州観光ガイド》since 2023 ⇨ 本サイトトップページ
🔗《福岡発!! 九州観光ガイド》since 2008 ⇨ 旧サイトトップページ
🔗《福岡発!! 九州観光ガイド ~ブログ編~》 ⇨ ブログ記事
コメント