
歴史の見える丘
軍港都市としての道を歩んだ、明治以降の呉の歴史が一望できる場所として、1982年(昭和57年)に整備されました。「海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎」や、呉で造られた戦艦「大和」を建造したドックの上屋を眺めることができます。現在、ドックは埋め立てられ上屋(骨組みは当時のままです)だけが残っています。
現在は、ジャパンマリンユナイテッド㈱になっており、造船の様子を眺める事が出来ます。また、戦艦大和を建造したドックの石を使った「造船船渠記念碑」、「噫戦艦大和之塔」他、幾つかの碑があります。
歴史の見える丘
戦前、ここは呉鎮守府第三門の隣接地で、戦艦大和など大型艦の建造や修理に使われた呉工廠造船部、呉鎮守府そして呉軍港全体が一望できる高台であることから、海軍用地と民有地の境界には高いレンガ塀が設置されていました。
戦後、レンガ塀脇は草地でしたが、昭和44(1969)年に「噫戦艦大和之塔」が建立。53(1978)年に子規句碑が移設され、57(1982)年の道路拡張工事に伴い整備され、レンガ塀も解体されて現在の姿になりました。
整備と同時に建てられたのが「旧呉海軍工廠記念塔」で、この場所もその眺望から呉の歴史をたどれる高台という意味で「歴史の見える丘」と名づけられました。
翌年には、明治期の呉の実力者澤原為綱(さわはらためもと)翁の銅像台座が二河公園から移設されています。平成時代になってからも、戦死したアララギ派歌人渡邊直己(わたなべなおき)の歌碑、戦艦大和を建造したドックの石を使った「造船船渠記念碑」などが建てられています。
『JMU 大和のふるさと 呉の海から世界の海へ ジャパンマリンユナイテッド』と書かれた大屋根の上屋が、戦艦大和が建造された船渠(ドック)の跡です。
建造現場の船渠(ドック)は埋め立てられていますが、この大屋根の上屋の骨組みは当時から残るものだそうです。
大和の建造は軍事機密だったことから、山手の方からの視線を遮るために大屋根が造られました。大和の全長は263mもあったので、大屋根の中には半分も入っていないのですが、裏山からの視線を遮るのには有効だったようです。
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『歴史の見える丘』に設置された記念碑など
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噫戦艦大和之塔
噫(あぁ)戦艦大和之塔 は、1969年第30回大和進水式記念として呉大和会によって建立された記念碑で、大和の艦橋を型どっています。
この丘から見える呉海軍工廠の造船船渠で、戦艦「大和」は秘密裡に造られました。昭和12年11月に起工、昭和16年12月16日に竣工し、昭和17年6月のミッドウェー海戦が初陣となりました。昭和20年4月7日、坊ノ岬沖海戦で撃沈され、2740名余りの乗組員と共に鹿児島県坊ノ岬沖に沈みました。
大和を建造した船渠(ドック)は埋め立てられましたが、軍事機密であった大和の目隠しとして機能していた上屋の骨組みは当時のまま残っています。
建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船船渠で、昭和12年11月仮称第一号艦として起工、同15年8月8日秘密裡に進水、翌16年12月16日竣工、直ちに聠合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同20年4月7日、国民の全く知らぬ内に、乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(1940年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径46cm、長さ20m、その砲弾の長さ2m、重さ1.5t、着弾距離42,000m、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲山門をならべた砲塔は、直径13m、重量2,700余tもあり、これを制作したのは砲熕部で、また、この砲塔や船体の主要部を防禦する41cm乃至36cmの厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に統計せられ、従って艦は異様なまでに幅が広くなり、排水量は69,000tを超えたが、それでもなお、27.5ノットの高速艦であった。
巨艦大和の建造は5万を超えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、4ヶ年余りの短期間で、延べ約3百万人の力と、当時1億1千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和16年12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続く「マレー」沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦隊旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来80年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電気等の重工業並びに各種産業殊に、造船技術は戦後いちはやくその実力を現わし、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。それまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」
といわれる所以である。
軍艦大和は20世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において、呉市民の力で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設し、もって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、また、その悲愴な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。
後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
造船船渠記念碑
造船船渠(せんきょ)記念碑 は、明治44年(1911年)から昭和46年(1971年)までの約60年間、数々の船舶を造り出した造船船渠を記念して建立されました。
この記念碑には、残存した工廠礎石を使用し、レンガは旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材、縁石は境川にかかる二重橋に使用されていたみかげ石搆造の踏石を使用しています。階段部分は、船渠側壁の石をそのまま用いて、渠底に降りるための階段部分を再現したものです。
完成時の船渠の大きさは長さ270m、幅35m、深さ11mで、この呉海軍工廠の船渠で、戦艦「大和」や「長門」などの艦船が造られました。
造船船渠記念碑由来
この記念碑は、呉海軍工廠内に明治44年(1911年)3月完成以来、昭和46年(1971年)11月その幕を閉じるまでの間、数々の船舶を生み出してきた造船船渠を記念して、船渠側壁の石をそのまま用い、渠底に降りるための階段部分を再現したものです。
完成時の船渠の大きさは長さ270m、幅35m、深さ11mで、当時東洋一の規模を誇りました。建設に用いられた石材は、国会議事堂の壁材にも用いられている倉橋島産のものが使用され、止水用の年度は豊田郡安芸津町から、また、石の下に敷き詰められた砂利と砂は夫々山口県今津川と県下太田川からといった具合に、材料も厳選されたものが用いられました。
この船渠で、戦前は戦艦「大和」「長門」を始め幾多の艦船が、また戦後は、世界初の10万トン級タンカー「ユニバースアポロ」ほか時代を代表する商船が次々と建造されてきました。船渠閉鎖後も造船工場の一部として原型をとどめたまま今日まで利用されてきましたが、この度装いも新たに新鋭工場として生まれ変わることとなったため、この由緒ある船渠の一部を記念碑として造船所を臨むこの地に設置したものです。
この記念碑は、旧呉海軍工廠の面影をしのぶよすがとして残存した工廠礎石を集め此所「歴史の見える丘」の一角に建立したものである
レンガは旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材、縁石は境川にかかる二重橋に使用されていたみかげ石搆造の踏石
頭部にあるカモメのブロンズ像は日本彫塑会会員般若純一郎氏の作になるものである
渡邊直己の歌碑・澤原為綱翁の銅像台座・正岡子規の句碑
渡邊直己(わたなべなおき)の歌碑
澤原為綱(さわはらためもと)翁の銅像台座
正岡子規の句碑
呉市出身で、昭和14年に中国で戦死したアララギ派歌人渡邊直己(わたなべなおき)の歌碑です。「噫戦艦大和之塔」の裏手に建っています。
明治期の呉の実力者澤原為綱(さわはらためもと)翁の銅像台座です。銅像部分は戦時中の金属類回収令で供出してありません。元は別の場所にあったものを移転したものです。
友人が海軍従軍記者として出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ三句のうちの一句です。元は別の場所にあったものを移転したものです。
呉かあらぬ 春の裾山灯をともす 子規
この句は、明治28年3月9日に、友人古嶋一雄が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗り組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ三句のうちの一句です。
当時、広島と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、子規は宇品港から船で呉の川原石港へ向かいました。呉軍港の入口のウルメ島付近にさしかかったとき、正面に見える休山山麓の日暮れの情景を詠んだ一句と思われます。
この句碑は、昭和33年12月に宮原地区有志により、約90m南西の交差点中央部に建立されましたが、道路改良のため、昭和53年に現在地へ移設したものです。
なお、句碑の文字は、子規の真筆を写真版から復刻したものです。
最終訪問日:2024.06.15.
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JR呉駅前の好立地。「大和ミュージアム」,「てつのくじら館」へも徒歩約6分。映画&ドラマのロケ地巡りに最適です。朝食は,14階レストランから呉湾を一望しながらお召し上がりいただけます。


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