日野江城跡
日野江城跡は、長崎県南島原市のほぼ中央、有馬川河口付近の小高い丘にあります。戦国時代のキリシタン大名であった有馬晴信の居城跡として知られています。
鎌倉時代前期の建保年間(1213~1219年)に藤原経澄によって築城されました。経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称しました。
当初は島原半島南部の一勢力に過ぎなかった有馬氏は、後に島原半島一帯を支配し、戦国大名へと成長していきました。有馬貴純の時代には、日野江城の支城として「原城」を築城しました。
晴純の時代に有馬氏の勢力は最大となり、21万石を領するまでに成長しましたが、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると佐賀の龍造寺氏の圧迫を受けるようになりました。
13代目当主の晴信は、始めはキリスト教に好意的ではありませんでしたが、龍造寺氏の攻撃が激しくなった事から、1580年に洗礼を受け、イエズス会から食糧や資金等の支援を受けるようになります。キリシタン大名となった晴信は、城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材としました。
日野江城は、標高78m付近の本丸と、東の二の丸、西の三の丸から構成され、大手口は二の丸にありました。本丸北方の屋根続きには堀をめぐらし、西側に浦口川、東側には大手川が流れ守りを固めました。また、川を通じて海へと続く水運に直結していました。
イエズス会の報告書に、有馬晴信が石垣や階段を造り、1590(天正18)年に内部の建物を改築した事が記されています。また1595(文禄4)年に城を訪れたイスパニア(スペイン)商人アビラ・ヒロンは、 城内にはいくつもの部屋や茶室、庭園があったと記しています。
二の丸の発掘調査では、破壊され埋められていた石垣や階段遺構、陶磁器などが出土しました。階段は100mの直線で、大手口推定地から本丸下まで一挙に駆け上がる構造で、階段の北側からは石塔が多く出土しました。
階段には宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔などの墓石を再利用しており、有馬氏が仏教を排してキリスト教を保護した事や、権力の強さが伺えます。
最終訪問日:2016.01.02.
日野江城跡 アクセス
名称 | 日野江城跡 |
住所 | 長崎県南島原市北有馬町戊2350 |
TEL | |
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